【感想・ネタバレ有】サバティカル/中村航 を読んで

どうも、Soitanです。普段はポピパ考察をしてますが、今回は原案の中村航先生の新刊「サバティカル」を読んだ感想をまとめました。

※ネタバレ注意です。

 

 

簡単なあらすじ

エンジニアである主人公の転職先が決まりましたが、会社の都合で5か月間の空白期間があります。主人公はその期間をサバティカル(長期休暇)と捉え、今までできなかったことを一つずつこなしていくというお話です。

 

感想

感想を一言で表すとしたら、しんどいな…、ということでした。読み進めても読み進めてもしんどい話が続いていく感じで、思わず涙が止まらなくなってしまったところもありました。それくらい今の自分には刺さる言葉が沢山ありました。

 

この物語はどこを切り取っても優しい世界に満ちていて…様々な行いが許されていました。しかもそれが、エンジニアという機械と共に働くような、心が無さそうな人間が対象です。エンジニアと言っても人は人であるし、理論的に理解しないと物事が掴めないからこそ、また悩みも深まってしまうんだなあと思いました。

エンジニアの仕事は、基本的には守りなんだそう。これは、主人公が工作機械の会社で働くエンジニアですから、不良で止まった機械を直す仕事を受け持っており、ゴールキーパーの役目をしなければなりません。このディフェンス力は仕事で有能になることで高まっていきます。そして、主人公は挑戦から逃げることが当たり前になってしまいました。

 

仕事のやりがいとは、頑張ると感謝される“構造”のことだときっぱり言い切っているところが印象的でした。ここに言語化された清々しさを感じました。

 

この感謝されるとは慰めに繋がっているなと思いました。夫と離婚した香奈さんが出てきますが、香奈さんは離婚した夫に会いに行く娘を健気とし、夫は娘がくることで罪悪感が軽減され許された気持ちになるだろうと香奈さんは話します。

その構図に、娘を許しを与えているのだとし、弔いだと言いました。主人公はこれが本質であり、また、啓示であると考えました。この考え方は、この物語を象徴しており、許されることが生きることなのかもしれないと思いました。

 

途中、主人公に将棋の師匠が生まれます。この師匠について描写する部分で思わず泣いてしまいました。

多分、師匠は納得したいのだろう。(中略) だけどそんな自分を、本当には受け入れられていないから 、何度も何度も語る。今も、これまでも、多分これからも、聞いてくれる相手を探して、どこかで聞いたことのあるようなベタな物語に、身の上を落とし続ける。

P61

そして、その話は、きっとどこかに小さな嘘を含んでいるのだろう。だけど何度も話しているうちに、物語は強固になり、本当になっていく。師匠は自分の心を、なぐさめ続けているのだ。

P61

主人公が師匠についてこんなにも的確に分析できるのは、師匠が主人公と同じような人物であり、諦めてきた人間だからです。しかし、主人公のサバティカルとは、零れ落ちたものを拾いにいく旅であり、見なかったようにしていたものを拾いに行かなければなりません。主人公には元カノがおり、別れたことにけじめがついていなかったのです。 

主人公が、別れた彼女の面影を投影するために何度も公園に向かうシーン、そして上記の引用部分は、自分と全く同じことで、そのため共感して泣いてしまいました。私も、銀閣寺の隣の哲学の道を歩きに行こうかなと思いました。そこに答えがあるわけではないと分かっていたとしても、あそこの写真を撮ることで何かが変わる予感がします。少なくとも、この物語はそう教えてくれた。

 

主人公の元カノとの思い出が一枚のスナップ写真のような情景しかないことがずっと気にかかっていました。その理由が後半で語られるわけですが、私は普遍的にそういうものなのかなとも思ってしまいました。それこそ引用部分のように、自分の心を慰め続けた結果、物語は本当になってしまう。本当になったほうがきっと幸せなんだろうなと私は感じる。

 

未来への思いや希望があっても、どこかで諦め、時間をやり過ごしている。何も望まないふりをして、でも本当は求めている。内面にあるのは言い訳ばかりだ。

P88

主人公のこの考え方が正直でまっすぐだなと思いました。そしてこれは小説版香澄と全く同じであり、これを解決する言葉はPoppin’Partyが教えてくれました。少しずつ昨日までの自分にサヨナラをしていかなければいけないなと思います。

 

偶然や必然が入り乱れるように、人と人は関わる。だけど関わり続けるには意志や覚悟が、あるいは運命のようなものが必要なのだろう。

P115 

主人公に彼女を作ることができなかったのは意志や覚悟や運命が足りなかったのだろう。そして、彼女がいないという事実は、こうしたものを持たず、逃げていたと捉えられるのだろう。

 

でも、そこまで気負いする必要もないのかもしれない。出戻り歓迎とは、そういう責任から逃げることへの許しなのだろうか。人生が、帰る場所を探すための長い旅なのだとしたら、帰る場所とは許される場所であり、感謝や慰めの構造があれば、形はどういうものでもいいのかもしれない。そのためには、許される場所を作ることに挑戦し続けなければならない。

 

まとめ

何者にもなれない自分より、何者かになれた自分の方が絶対幸せなんだろうな、というのはわかる。だけどそんな自分ってのは決して特別なことではないんだなとも思う。