Give and Takeって難しい気がする

どうも、Soitanです。

 

前回の記事は、言い回しが少し回りくどくなってしまったけど、今の自分が考えていることそのものを装飾なしで的確に言語化できて良かったなあ。

 

簡単に言うと、2次元に“優しさの空間”を求めていて、それって関係性のことなんだけど、その関係性が深まった状態は承認欲求が満たされた状態と同じ気がする。じゃあそれなら承認欲求(関係性)を得られる生き方をするべきだし、2次元の関係性に拘る必要はないよね。だって、それは画面の向こう側から教えてくれた気がするから。

という感じでしょうか。実際には、自分でもできそうな気がするという根拠のない自信の方が主の話なんだけど、諦めてたことから変わることって中々難しいことだと思っているので、気づいた時は結構衝撃的だったんだよな。

 

で、関係性を深めることに関連して、前々回の記事で紹介したGive and Takeの概念が結構大事だなと最近は感じてきて、究極的にいれば、友達とはG&Tのよりマッチング率の高い人という意味合いなのではないかと思えてきている。それが相性と言えるものかなという気がする。そう考えると恋人を探すことも、マッチング率が高い人を探すべきで、じゃあ私の要素とは何だろうかという話にどんどんズレてしまうが、とりあえずこの辺で割愛。

 

G&Tの難しいところは、“正しく”与えることと“正しく”受け取ることだと思っている。どうしても自分と自分から見た他人でしかないので、相手の応答を上手に受け取らないとG&Tにならないという問題がある。

その例として、「自分と恋愛をすることで相手を不幸にさせてしまうのではないかと思って一歩を踏み出せない」と友達が言っていた話がある。それと似たようなことを考えて自分もうまくいかなかった過去があったことを思い出した。

 

これは、自分が思う相手の意見であって、相手が考えている相手の意見ではないと思い直して、それが杞憂民のような過剰な忖度を引き起こすお節介に通じる行動だと戒めるようになった。

この自信のなさは、多分彼女に何をGiveしていたのかを正しく認識できなかったことが原因だなと思った。この一連の行動はコミュニケーション障害になり得るなあと考えている。つまり、コミュニケーションにおいて自分の中で完結してしまった場合、何かが間違っているのではないか?ということだ。

 

 

最後に、

ライブに行くようになって、身体が喜ぶような体験をして、身体性から逃れられないような気がしてしまった。だから、最近は頭で考えたことを身体が感じることとどう矛盾なくソフトランディングさせるかに一生懸命になった方が良いと思っていて、マッチングみたいなものも直感に頼った方が正しい気がする。何でそう直感したかをどうしても知りたくなってしまうが、わかるまではグッと堪えて受け入れたい。