主体としてのわたし。それを真に手に入れることができるのだろうか。
親戚の家族に誘われて飲みに行った。家族はみな優しく団欒としており、そこに参加させてもらえてお喋りできることは本当に有難く、気にかけて下さっているのだなと毎度毎度感謝の気持ちでいっぱいなのが正直なところだ。
会話は本当に楽しいのだけれども、酔った中でも気になってしまうことがある。それは、この会話にわたしという存在が宙に浮いているということだ。私は家族の一員ではないのだから当たり前なのだが、そういうことではない。親戚の家族は愛を生産しており、私は愛を生産していないのだ。
ここに、私が部外者なのだという意識が否応にも突き付けられる。あまりにも優しいナイフの前に、鋼を纏った私の心は、簡単に溶けだしてしまう。
ああ、これが持つものと持たざるものの違いか、と感じざるを得ないこの感じ。どこか達観したようにせせり笑うことでしか、この奇妙な感情を理解することは到底不可能だった。
しかし今、私は愛を語ることができる道具を持ち合わせ始めている。誰かを応援することによって無償の愛をいただいているのだ。この愛は少しいびつで一種の契約かもしれないが、私は“憧憬”に似た気持ちを抱くその人から間違いなく愛を貰っている感覚なのだ。
おかしい。オタクに媚びるようなことをしていなければ、アーティスト活動こそすれアイドル活動はほとんどしていない*1 私はどこから貰っているのだろう?
私はそのヒントを佃煮のりお先生のガチ恋体験談生放送で得た。のりお先生が赤﨑さんにガチ恋された際、赤﨑さんはアイドル売りを全くしていないことを話されていた。そして、ガチ恋をしてのりお先生は「都合のいい存在」になりたかったのだと言う。*2
感情貯金の話、ガチ恋の話、自分の感覚…それらを総合して考えた時、承認欲求とは他人に必要とされることであり、その欲求は推しの活動に投資する対価として、私の存在が認められていたのである。
私は考えていた。他人を応援することにのみ力を入れていると、対象が結婚したときなどに簡単に足元がぐらついてしまう。そうならないためにも、自分の生活を充実しなければならないと。これは危機回避能力が培った直感であった。また、画面の向こうの優しい空間はどうであったか。こちらも自らが勝ち取った先の関係性であったはずだ。
なるほど、承認欲求とは勝ち取るものであり、努力して手に入れるものだ。他人から貰っているようでは本当の愛ではない。であるならば、Give&Takeの考え方も考慮して、私が与えなければ、何も始まらないということではないか!
……
私が本当に望んでいたもの、それは私が与えなければ産まれない?
臆病な私が主体的な自我として生きることを始める。仕事で有能になること、彼女を持って家庭を持つこと、その憧れは主体として生きることに挑戦し続けることで初めてスタートラインに立てるのだろう。
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