「生きてて偉い」「配信できて偉い」
最近、そんなコメントを見かけることが増えました。推しの行動を全肯定するファン、全肯定オタクと呼ばれるファンが残す特徴的なコメントです。
今回は、そんな全肯定オタクについて取り上げて記事を書こうと思います。
最終的に全肯定オタクに落ち着く話
全肯定オタクとは?
全肯定オタクとは、推しの行動を全て肯定する盲目的なファンを指す言葉です。
人は様々な理由で推しを全肯定します。
推しにガチ恋して一挙手一投足すべてが愛おしく感じ肯定するファン、推しに好かれたい・嫌われたくない一心で打算的に肯定するファン、推しの人生を見届けようと覚悟を持って全肯定するファン。
そんなファンを冷ややかな目で見つめるファンも多いのではないでしょうか。自分も最初は全肯定のスタンスにかなり否定的でした。思考停止じゃんと思いましたし、異様な態度に見えてしまいます。
でも、色々とオタクを長くやっていくにつれ、今では全肯定なオタクでありたいと思うようになりました。そんな話をしたいと思います。
※一オタクとして思ったことなので、個人差があると思いますし多様な考え方があり得ると思うのでご注意ください。
コンテンツを批判するということ
そもそも、肯定しない≒批判するとはどういうことでしょうか。
批判
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
デジタル大辞泉では、批判とは“人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること”としています。
オタクコンテンツでは批判されることが昔からよくあります。批評文化などが流行った時代もありました。昔話だけではなく、ファンの要望によって設定の変更がなされることが今でもあります。
私の好きなコンテンツ「BanG Dream!」のゲーム、通称ガルパでは、ファンが解釈していたキャラクター解釈像と公式が描こうとしたキャラクター像に矛盾が生じたために、キャラクターの家族構成の設定を変更する事態となりました。*1 苦情だけでなく売り上げが激減してしまったため、運営側も対処せざるを得ない事態になったのではないかと想像します。このようにコンテンツへの批判は起こり得る話です。
コンテンツと人間は異なるという当たり前の話
コンテンツへの批判があることが分かりました。では、対人間に対しても同じように批判することはできるのでしょうか。「推しが間違った発言をしたので、厳しく指摘する」そういった態度が現実的にできるものでしょうか。
これは難しいのではないかと思います。なぜなら倫理的な問題になってしまうからです。
もちろん批判すること自体は可能だと思いますが、例え助言できたとしても、実際に行動したいかどうかはその人の自由です。ましてオタクからの助言なんて、ウザイと思われるだけなのが関の山でしょう。嫌われるのは間違いありません。「他人の行動に口出しする」ということは、その人の私的な領域に踏み込むことになります。
ファンが良かれと思って呟いた“批判”が、推しからは“指示”と受け取られ、嫌な気持ちにさせてしまうことは良くあることです。そういうことだから、SNSで応援するにしても発言に気を付けざるを得ません。今の時代、推される側は当たり前のようにエゴサをされますので、呟くにしても検索除けを駆使しながらでないといけません。*2 結局億劫になって、だんだんと呟かなくなっていきます。
このように、①批判することそのものが倫理的に難しい、②批判できる空間が乏しい、という2つの状況がありますから、批判しない≒全肯定するという状況が生まれます。
関係性を壊したくない
この状況は演者同士の関係性にも当てはまります。
オタクには特定の人を推す「単推し」だけでなく、演者同士の関係性を推す「関係性オタク」と呼ばれる人種もいます。「オタクは○○さんとの関係が好きなんだ…」と推しに理解されると、推しから関係性の営業をされることになります。営業されたらオタクとしてはそれはそれで美味しいのですが、営業活動が重しとなり演者同士の関係が破壊される原因にもなる場合がありますので、演者同士の関係についても言及が憚れる状況になります。
結論、黙っていた方が良い
上記の話から分かる通り、推しの話をして良い点といえば、ファンでない人に興味を持たれてファンが増えるかもしれないくらいのことで、基本的にはネガティブな影響の方が大きいのではないかという個人的な実感があります。
もちろん、ハッシュタグを使って感想を書くことが推奨される場面は当然あります。しかしそんな状況であれ、エゴサされることを前提に感想を書くことになりますから、SNSは社会的です。ファン歴が長くなるほど自身の呟きが見られていることを自覚していますから、エゴサされても良いように良いことしか書かなくなるはずです。
模範的なファンであることを望むほど、結果的に、全肯定オタクになる。
(余談)模範的なファンであることは幸せに直結するか?
ここからは完全に余談なんですが、そんな模範的なオタクがどこに行きつくのか、その終着点に興味がありませんか?
模範的なファンであれと望むほど、全肯定オタクになる傾向が分かりました。そんなオタク達は最後はみんな幸せになるのか、考えていきたいと思います。
関係が終わるときは等しく終わる
ここまで推しのことを考えていたとしても、終わるときは等しく終わります。これは声優オタク(他、3次元オタク全般に当てはまります)になってしまったことが全ての間違いだからです。
3次元オタクという人種に向けられる視線
これを読んで、なんとなく分かる人もいれば分からない人もいるのだろうと想像します。
ガチ恋オタクという人種はネットで非難される対象にあります。「ファンをやっていたからって結婚できると思っていたのか、そんなわけないだろう、バカじゃないのか」という批判を目にしたり、そのように考えていらっしゃる読者の方もいらっしゃるでしょう。
自分はガチ恋オタクではないですが、ガチ恋オタクが身近にいらっしゃる、そんな環境にいますから、オタクが何を考えているかある程度推測することができます。オタク側の論理で考えると、先程の批判は真っ当なようで真っ当ではない批判なんですよね。そんなことくらいオタクが一番よく分かっているからです。
3次元オタクとはどういう人種なのか
ある種のオタクがどうして推しのファンをやるのかというと、何かその人の良さに触れて、憧憬・執着・承認欲求あるいはアイデンティティの一部として複雑に絡み合った感情を持ち、そしてまたライブに行きたい、コンテンツに触れたいと思うからです。
ライトなオタクであれば、歌の上手さや容姿など分かり易い評価に回収されることも多いですが、何年もファンをやっている方であれば、多かれ少なかれ複雑な感情を抱えることになるのではないかと考えています。
批判をする人は、この非対称な対象に向ける特別な感情が分からない。だから恋愛感情と解釈されてしまいます。
恋愛関係は対称な関係性だと個人的に思っています。対等ではないかもしれないですが、キャッチボールをすることができる関係だと思っています。自分の感情だけでなく、相手の反応も考えて態度を決める。こうした駆け引き・綱引きが恋愛関係の醍醐味だと解釈できるのではないかと個人的に考えています。
一方、非対称な関係はキャッチボールができません。こちらからの一方的な感情のみです。3次元の推しは、ファンの欲望を意識的あるいは無意識的に受け入れる対象として存在します。
これがある種の狂気と隣り合わせだという批判は当然あるでしょう。しかし、熱量を向けても良い存在として(暗黙的に)認められていること、物語として消費させていただくこと、これが救いとなっている現実が存在していることもまた事実なのです。
関係の破綻
ファン活動・ファンクラブによって運営から、この特別な感情を向けることを肯定され、そして声優(アイドル他)はファンによって支えられていると仮構されます。
声優オタクがなぜ結婚報告に怯えるのか?という質問には、私は本人の口から直接「この虚構の関係を終わりにしよう」と一方的に告げられてしまうから、と答えます。
結婚によって何かが変わるかと言えば、実際は特に変わることはありません。しかし、結婚による構造の変化は、オタクと推しの関係を変化させるには十分に劇的でしょう。これは炎上や引退と言った社会的な死と同等の影響力と捉える場合もある。
何がいけなかったのか
3次元オタクである私たちはどこで間違えてしまったのでしょうか? 模範的なファンであることを自らに強いていたはずです。とすれば、答えは一つです。ファンになってしまったこと、それ自体が大きな間違いだったのです。惚れた弱みというやつですね。
上のブログで語られている“推しが魅力的すぎるのが悪い”というのは、推しの魅力を非難しているのではありません。推しの魅力に抗えなかった、ファンになってしまったことを指しているのです。そして“生きながらに死ぬことを許されている数少ない人間がガチ恋オタクである。”とは、先程説明したようなファン活動の末路が破滅の道を進むしかないことを表しています。
とはいえ抜け出そうにも、ばっさりと未練なく他界するしかないのです。そうでないのなら全員一人残らずおしまいになってしまうのですから。
私もその時を準備しています。
対戦よろしくお願いいたします。
*1:『バンドリ!』今井リサの「家族構成」に関して謝罪―“弟”の存在に対する設定変更を後日実施 | インサイド (inside-games.jp)
*2:検索除けが検索除けにならないこともよくあります