人生のリスタート

こんにちは、Soitanです。

夏の甲子園が中止に決まったというニュースを見ました。一生涯かけて練習した集大成がその舞台であり、それが中止となってしまった衝撃と深い悲しみは私には想像もできないほどです。

と同時に、このニュースの受け止められ方に少し違和感を覚えました。コロナ禍におけるイベントの中止は皆平等ですが、夏の甲子園だけがセンセーショナルな報道のされ方をすると、高校生の物語を楽しむ観客のエゴを感じて、少しだけ嫌な気持ちになります。

今回はそんな話から人生の話をしたいと思います。

 

 

希望についての考察から、外部は存在しないのではないかということをずっと考えています。これは言葉遊び的な意味ではなく、外部を設けても不毛なだけなのではないか、と感じているということです。

外部を設けることで生きやすくはなると思います。甲子園を例に挙げれば、大人が未来の中高生に対して甲子園出場(あるいは優勝)の夢を与え、そしてそれに向かって頑張る子供たちを記録することで物語や感動を析出する、このように捉え直すことができます。甲子園という目標を設定することで子供たちは生きやすくなるし、大人は物語として消費することができます。Win-Winの関係ですね。

ただこれでは、子供たちが(振り回されて)可哀想だしあんまりにも不毛じゃないですか?と思ったんですね。ところが、どれだけ考えても不毛でないこと・意味のあることというものが自分の中で全く定義できませんでした。どうやら人生というものは不毛なんだ…ということに気付いてしまったようです。

不毛だったら遊び呆けていればいいかといえば最低限の生活は確保せねばなりませんのでそういうわけにもいかず、どう考えれば良いのかと袋小路になってしまいました……

 

ここで、改めて甲子園の話を考えます。重要なのは、外部の夢を真に受ける子供たちが哀れということではなく、夢に向かって頑張る子供たちは美しい、ということではないでしょうか。彼らも野球を始める際は親による薦めがあった(外部の導入)かもしれませんが、徐々に野球が好きになり、いつしか心から野球を極めたい・甲子園に出場したい、と思うようになったはずです。そして、甲子園に出場できた・できなかったという結果を含めて、この歴史は他者に物語として消費されたとしても、彼らの経験自体は財産なのではないか、このように考えることにしました。

 

すると、夢を与えた制作者(親)は悪いことをしているとも言えなくなってきます。つまり、制作者(親)のエゴによって子供たちが振り回されてしまったら外部の導入に相当しますが、子供たちが心から選択した夢に変化した場合、外部の導入はきっかけであって、この時点においては外部と言えないのではないか、このように解釈できると思いました。

 

現代社会は、日常のあらゆる営みにディズニーランド的な非日常性が演出され、浸透し、繁茂しています。テクノロジーが全域的に浸透した外部不在の社会を生きる我々が希望を見出すとしたら、それは〈テクノロジーの遊戯〉に身を委ね、愉しみ尽くすことに他なりませんでした。*1 

非日常について、以前“日常ではない日常”として解釈しました。*2 外部不在の社会において非日常とは、外部(非日常)であるかのように仮構された虚構です。きっかけとして利用することで、実感を伴った内部(日常)になると解釈したい。戸山香澄が、夜空の星々を見て世界との一体化を感じ*3、そして自身の身体にホシノコドウを得たことは正にこのことだと思います。

ガルパのイベントストーリー「幼き日の面影は今もそばに」では、瀬田が進んで道化を演じていることが明らかになっています。強く優しく美しい王子様になるために、例え道化(虚構)を演じることになったとしても自らの夢のために人生を選択する、ここにおいて瀬田の夢は、実感を伴った内部に変化したと言えるのではないでしょうか。

 

個人的な話になりますが、私が初めて推しのソロライブに行ったとき、彼女のライブパフォーマンスの上手さに驚きました。その1年後の記念ライブでは、4列目という至近距離で視認することができ、彼女の質感に人間だった…という実感を得ることができ、感動しました。 その歌とダンスとライブパフォーマンスに、私の身体を同期させ、音楽に身を委ねて跳ねたりペンラを振ったりするとき、世の中にはこんなに素敵な娯楽があるのかと感激し、私も彼女のように人を感動させるような仕事がしたいと夢見るようになりました。

このとき私が感じた夢と感動は、虚構的な関係の中に見出した確かな現実です。むしろ、ここから私の人生がリスタートしたのではないかと思えてなりません。