コンテンツに向き合う態度の話からお気持ち表明まで

こんにちは、Soitanです。

今回は一部で話題になっていた「作者の用意した正解以外は考えても仕方がない」という話題について考えていきたいと思います。個人的な意見を述べてからお気持ち表明へと移ります。

 

コンテンツに向き合う態度

 「作者の用意した正解以外は考えても仕方がない」に対する個人的な意見としては、基本的には賛成です。理由は簡単で、書いていないことを作者の考えていることにする根拠がないからですね。端的に言ってしまえばこれで終わりです。

Twitterクソリプなんかは割と典型で、書いてないことを読み手が妄想した結果、意図しないリプライが来てしまい書き手が困惑するというのはよくある話ですよね。このように、書いてないことを妄想することはリスクがあるとまず理解してください。

従って、書いてあることを作者の主張にする、それ以外は作者の主張ではないとする態度が普通です。

 

お気持ち表明

これで終わりたくない、という話が本題です。別の記事ではバンドリの考察をしながら別の書籍を引用するという行動を平気でしていて、お前やってることと言ってることが違うじゃないか、と言われそうなので、釈明と個人的に考えていることを今から話します。

 

バンドリやガルパは、平易な日本語で表現されていますが、よくわからない(と私は考えている)。「ぜんぜんわからない。私たちは雰囲気で青春をやっている」なんですよ。だから、作品の言葉を引用したり、偉い方のインタビューを引用したり、時には作者さんの過去の作品を引用したりして考察を深めることで、今まで靄がかかった解釈が鮮明になり、解像度の上がった解釈が可能になる(と考えている)。

で、このスタンスは解像度を上げることで人生が豊かになるという価値観に基づいて行っているんですよ。従って、別に解釈なんて必要ないよ、そんなマジになっちゃってとか言われても、あなたはそうなんですねとしか言えないんですね(自分の価値観を押し付ける必要もない)。

この価値観を持っている人が改めて「作者の用意した正解以外は考えても仕方がない」を考えると、作者の言っていないことを考えるのは道徳的ではないが、ある程度根拠があり妥当性があり迷惑が掛からない場合に限り、考えても構わないのではないか、と思っている(し、そう言えるほど誠実に解釈したいと思っている)。

 

二次創作

私は二次創作する人ではないので基本的には好きにやってくれればと思っているのですが、どうも最近はオタク=二次創作前提という空気があり、よくわからないですね。

公式以外は妄想なので、基本的に二次創作は平等なのですが、なぜ解釈戦争をしているのかよくわからないですね。

 

個人的には、コンテンツで紡がれる物語はカメラで切り取った物語という認識で見ているので、撮影していないプライベートな生活が存在すると思っています。私個人の思う「公式のif」とは、このカメラで切り取られていない物語を指しています。

ガルパはキズナの物語であり恋愛物語ではないと思っているので、正直○○ちゃんと△△ちゃんが付き合う二次創作より、全く登場していない男の子と○○ちゃんが実は付き合っていてバンド活動と両立しながら生活している、みたいな二次創作のほうが解釈違いにならないと思っています。これは、カメラの内側にある解釈違いよりもカメラの外側の描写を描く方が解釈違いにならないということですね。

 

何度も言ってますが、これは個人の考えなので同意されてもされなくてもいいし、平等なんですよ。

ところが、一つの解釈で殴り続け、公式は解釈違いと喚いて変えさせようとする動きがあることは少し不誠実だなと思ったりします。今のところ数件なので良いのですが、この動きが一般化してきたらちょっと不気味ですね。

京アニの件もレスラーの件もそうですが、自分の解釈が絶対的な真だと考え、その正義の執行による暴走が表面化している社会ですので、私も常々警戒したいと思っています。