「幼き日の面影は今もそばに」からキャラ概念を考えてみる

こんばんは!どうも、Soitanです。


最近はコロナによる制限が落ち着き、少しずつ元の日常が戻ってきている頃合いだと思います。(感染者数は右肩上がりだけど!!!) しかし、日常が戻ってくると、息苦しく感じていた日常もまた戻ってしまうように感じてしまいます。それは私だけなのでしょうか。


今回はガルパのイベントストーリー「幼き日の面影は今もそばに」から、キャラ概念について考えていきたいと思います。キャラ概念は関係性に影響するものだと思っています。白鷺と瀬田、2人の演技に対する考え方の違いを考察して、令和の生き方を実践していけたらと思います。

 

 

あらすじ


演劇部の公演で、瀬田薫はかつて白鷺千聖が演じた役をやることになりました。その演目は、幼い頃に白鷺と瀬田が『役者』の存在へと変化したエピソードがありました。瀬田薫の思い出話が始まります。

 

白鷺千聖の場合


白鷺は女優になった理由として“『表現の幅が広がれば人生が豊かになるから』”と優等生的な回答をしています。これは星4白鷺の左エピソードで“『白鷺千聖』として生きていくことが小さい頃から決められていた”と暴露されていることから、女優の道を主体的に選んでいないからであると分かります。

それでも“女優さんになれば、いろんな人になることができる。(中略) とっても、素敵だと思わない?”とも語っており、この時点で女優の楽しさを見出していることも分かります。

 

白鷺にとって「孤独の街」は女優の負の側面を突きつけるものでした。
役のキャラを千聖の人格だと誤解され、千聖の人格がクラスメイトに正しく伝わりません。瀬田は千聖の『強さ』を評価しますが、女優としての覚悟の無かった幼き白鷺は「強い人になりたいわけではない」と泣き出してしまいます。

「悲しいって思う気持ちもなくなっちゃいそう」という叫びは、「そういう気持ちも全部お芝居を通じて表現できる」と姿を変えました。
瀬田はこれを『プロフェッショナル』な存在とし、君の門出の瞬間だと讃えました。

 

その後バンドリの物語では、丸山やパスパレのメンバーと出会い、改めて自分と向き合うようになりました。社会や大人から要請されていることを守り続けた白鷺は、夢を持てないつまらない人間でした。パスパレ2章は、「夢を持ちたいという、白鷺の、赤子のような身体に微かに残る願い」を吐露したイベントストーリーでした。

 

瀬田薫の場合


瀬田は白鷺の悩みを理解していましたが、力になれずにいました。体験入部した演劇部にて白鷺の言葉を思い出し、改めて人生を生きることにしました。瀬田は「お芝居はなりたい人になれる」という白鷺の言葉を、優等生的な大人の用意した回答として受け止めたのではなく、本当に誠実に信頼したのでした。


“君のおかげで私はやりたい事が見つかった。生きてみたい人生を手に入れたんだ”
とはお世辞や誇張ではなく、「お芝居を通じて人生を切り開く」という夢を持つことができたわけですね。


白鷺は、瀬田を“勇気を手に入れた”と評価せざるを得ませんでした。

 

その後バンドリの物語では、こころやハロハピのメンバーと出会います。こころの言葉を受けて瀬田は、“感動したよこころ…… 人は……一つの役を演じ続けることなどないと思っていた。でも、君たちの、いや世界の王子なら喜んで引き受けよう”と語っています。

“一つの役を演じ続けることなどない”とありますが、これは白鷺の言葉を受けていますね。瀬田はここで白鷺と異なる人生を歩むことにしたのが分かります。

 

キャラ概念と人生

「キャラ」概念の広がりと深まりに向けて(定延利之 編) では、「キャラ」を“本来は意図的に切り替え可能だが、切り替えてはならず、切り替えられないことになっており、その切り替えが露呈するとそれが何事であるかすぐ察しが付くが気まずいもの”と定義されています。

これは“意図的に切り替えられないもの”である「人格」と、“あからさまに意図的に切り替えて差し障りがないもの”である「スタイル」と分けて考えています。

 

本は、伝統的な語用論の「人間は状況に応じて変わらない」という「静的な人間像」を批判しています。白鷺の悩みは、まさに静的な人間像*1に苦しんだと言えます。

 

「キャラ」概念は旧来の立場から一転し、意図的・非意図的に問わず人間が柔軟に変化することを提示しています。動的な人間像は、家庭・学校・職場・塾・バイト先・サークルなどで意図的に、あるいは環境から影響を受けて、人間のキャラが変化することを肯定しています。瀬田の生き方はまさに動的な人間像に基づいていると言えます。

 

瀬田は「王子」というキャラを自己プロデュースしつつも、ガルパメンバーとの微妙な関係性の差異によってキャラが変化します。瀬田は「私は私だ」と語ることがありますが、微妙な差異のあるキャラ全てが、瀬田の人格から染み出る集まりであって、どれも自分自身だと言えるのです。

白鷺は、女優としての『白鷺千聖』と素の白鷺を別物と考えており、『白鷺千聖』を「スタイル」だと捉えているように見えます。しかし、『白鷺千聖』も白鷺から派生する「キャラ」である、と動的な人間像で解釈する方が自然だと思いました。

白鷺は演技を「人格の偽装」と捉え(ることで悩みが発生し)、瀬田は「自己表現」と捉えている(ことで生きやすくなっている)と解釈できるため、これを応用できないかと考えました。

 

令和は、個人や企業が他者からのイメージによって潰される悲しい事件が多発しています。静的な人間像は、他者からのイメージを簡単に捨てられない=縛られるという怖さがあります。(偽装した人格であれば悲惨)

他者のイメージは簡単に変えられるものではないと私は思っているので、キャラ概念や動的な人間像を持って、個人や企業が柔軟なキャラを演じる努力・静的な人間像に縛られることなく動的な人間像を持つ覚悟が、求められているのだと考えています。

 

 

*1:「状況に応じて変わらない」という考えだからこそ、役の演技を白鷺の人格だと誤解される