現象の解釈に熱狂的な人間の話

これは誰に向けてでもない自分に向けての戒めなんですが。

 

つい反論したくなる他人の主張と、全く気にならない主張があるということに気付いたんです。

主張が全く同じ他人はもちろん存在しないわけで、共感できない主張は当然あります。しかし、共感できないものでも「あなたはそういう主張なのね」と納得できる場面と「いやこれはおかしい」と反論したくなるものが存在して、この違いは何だろうかとずっと考えてきました。

 

これはひとえに「解釈のスタンス」にあると考えられます。

 

私の主張は、「まず世界(社会)があり、願望は世界の認識の上で成り立つものである」です。一方、つい反論したくなる主張は、「まず願望があり、社会は(私の)願望に従って操作可能である」だと思いました。

 

噛み砕いて説明します。

私は社会の一員であるという認識があり、その社会を理解することは生き抜く為に最も大切な行為だと思っています。もし私の願望と世界に相違がある場合、世界と矛盾しないように「願望を解釈していく」 パラメータをチューニングするように願望を世界にマッチさせていくんですね。このパラメータチューニングが私の「言語化された解釈」になります。

 

一方反論したくなる主張は、まず叶えたい願望がある。願望と世界に相違がある場合は「世界を変化させていく」

 

どうやら私は後者の態度を「傲慢」だと考えるタイプのようです。
他人を理解したのであれば、無駄に噛みつく癖を止めたいですね。