今週も人生をやりました。
キーボード
キーボード始めました
— soitan (@lativoir381) 2021年3月5日
キーボードを始めました!!!
バンドリを追いかけてから、ずっと楽器に対する憧れを持って今日まで生きてきた。音楽には人を感動させる何かがある。それなら自分もやってみたいなと。
コロナ禍で外出するのも難しい昨今、家でもできる新しい趣味に楽器があるじゃん!と半ば衝動買いでキーボードを買ってしまった笑 「アウトプットな趣味をブログ以外に一つ作る」と年始に抱負を掲げていたので、キーボードで行こう!
全くの初心者なので、メロディのワンフレーズを片手で弾けるようになるところがひとまずの目標かな。ゆくゆくは両手で一曲弾けるようになりたい。
楽器は習得に時間がかかるイメージがある。声優さんが涙を流しながら必死に習得しているところを見ていると、いやでもそう感じてしまう。
でも、演奏できるよう必死に頑張った先に今のバンドリ!があるのなら、バンドリ!の文脈を体験したいから楽器を始めたいと思うのもまた、バンドリオタクの性じゃないか。*1
楽器は習得に時間がかかるということは、練習をすれば相応の報酬を受け取れるとも解釈ができる。楽器はゲームだと思った。
世の中、努力したところで報われるわけではないクソゲーである。努力すれば何かを手に入れられるのなら、幸せだなと思う。
どうせ人生長いんだし、やりたいことやろうぜ。
別に職業にするわけでもなし、自分の好きなように人生をやっていきたい。
推し、燃ゆ(ネタバレ有)
ネタバレ有で感想を語っていきます。
宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』を読んだ。
“普通”の日常が描かれていただけだったのだが、“普通”を描かれることがいかに嬉しいか。推すことに対する偏見がある中で、自分と近しい価値観を解像度高めに美しい文学表現で言語化していただいた。大変感謝しているというのが正直な感想だ。
推し、燃ゆとは、推しの炎上を表している。主人公のあかりは推しを推すオタクである。あかりが特徴的だったのは、あかりが考察系のオタクだったことである。特に、推しに自己を見出すタイプのオタクであった。
面白いのは、あかりは地下アイドルのオタクではなかったことだ。アイドルものを題材とした作品を最近目にする機会が多い。しかし、どれも地下アイドルのオタクであり、接触と承認欲求がキーワードである作品が多い気がする。*2
一方、あかりは匿名であることを望んだ。なぜならあかりのスタンスは、“作品も人もまるごと解釈し続けること”だったからだ。
これを読んだ瞬間、嬉しかった。
私はずっと待っていた。オタクのまなざしで推しを言語化してくれる人をずっと探していた。この願いは一部叶っているが、エゴサされる昨今、簡単に拾えるものではないと理解している。
推しに自己を見出す先に何が待っているのか、これからもよく考えていきたい。
さて、一点だけこの作品の解釈を語ろうと思う。
ファンを殴った推しを、あかりはなぜ解釈できなかったのだろう。私は「不可能」ではなく「解釈しようとしなかった」のだと思う。
人には様々なキャラクターが存在している。仕事・学校の自分、プライベートの自分、趣味を楽しんでいる自分etc。これはアイドルも同じ。アイドルはカメラの前で見せるキャラクターが存在する。あかりは、推しのキャラクターを見る慧眼を持っていた。
その慧眼を持って解釈できないのであれば、ファンを殴ったことは、「アイドルであるキャラクター」を逸脱した「プライベートなキャラクター」が判断したことであるために、あかりは解釈できなかったのであろう。
それはあかりも当然理解している。ファンが推しのプライベートに土足で踏み込んだから、推しは殴り、アイドルを引退したのだと推察できる。
だから、解釈しなかった。
プライベートとファンを天秤にかけてプライベートを選んだ推しに対して、これ以上解釈することはできないからだ。
そうやって、逃避しても現実は非情だった。洗濯物を見せつけられることで、これ以上逃避することもできなかった。あかりは背骨を失うしかなかった。
『推し、燃ゆ』の中でここが一番好き。
模範的なオタクであるあかりは、どこで間違ってしまったのだろう。
たぶん、単推しであったからだ。つまり、DDは最高なのである。