推し活をする上での苦しみやオタクの幸せについて考えたことをまとめてみた。
この文章で言いたいこと
- 推し活には苦しみがある。推し活は苦しい。「推し」がコントロール不可能な他者だからこそ、苦しみが発生する。
- 推し活は(人間関係と比較し)一方的な関係であり、自分自身の強い感情である。
- 三次元オタクには苦しみから解放される方法はない。推し事を辞めるか、推しに期待することを減らすしかない。
導入: 推し活の苦しみ
そもそも推し活とは?
人は2次元のキャラクターや3次元の芸能人を好きになったりする。推し活とは、ある種のオタクが、キャラクターや芸能人へ向ける愛を行動で示すことである。
「推し」という言葉が一般的になる一方で、「推し活」に対する誤解は根深いように思われる。この文章が何かの参考になっていただけたら嬉しい。
結論: 推し活の苦しみ
推し活は楽しいことばかりではなく苦しいことも多い。推しを持つオタクなら、一度は推し事が苦しいと感じる瞬間が訪れる。
結論から言ってしまえば、推し活の苦しみは「推し」がコントロール不可能な他者だから起こると私は考える。言葉にすると当然のように思われるが、実際には難しい。人は自分の延長線上に他者を規定しがちで、自分の想定通りに他者が動くと勝手に期待したり、自分の想定通りに動かない他者を見て勝手に失望したりする。
期待感のミスマッチが苦しみの本質だと私は考える。
よくある誤解
「オタクが推しと付き合えたり結婚したりできるわけない、夢を見たオタクが馬鹿なんだ」というインターネットの風潮がある。推しは異性であることが多く、性的な欲望が無いわけでは無いだろう。確かにそうなのかもしれないが、私にはこの主張は誤解、あるいはピントのズレた批判のように感じられる。
なぜなら、オタクは(たとえガチ恋オタクであっても)、必ずしも付き合ったり結婚したりしたいわけじゃないから。
推し活は人間関係ではない。推し活は推しに向ける感情を表す。
もし付き合いたいのなら?
推しに向ける感情が恋愛感情100%であるのなら、その最短経路は、推しと接点のある業界を志望し、共通の知人を介して友達となり、徐々に関係値を高めて、恋人関係に発展させていくことである。少なくとも、ファンになることではない。もし恋愛感情でオタクになっているのだとしたら、その努力は99%間違っている。
じゃあなぜオタクをやっているのかというと、推しに向ける感情が恋愛感情100%「ではない」からに決まっている。ガチ恋オタクは、恋愛感情100%で推していないからこそ『ガチ恋オタク』を演じるのだ。人間関係ですらないかもしれない。
まずは推し活そのものを考え直してみる。
推し活を分解する
推し活と人間関係の構造的な違い
人間関係というのは相互の関係である。
自分がいて、相手がいる。自分がなにか感情を持っていて、相手もなにか感情を持っている。自分が持っている感情を相手に投げると、相手も感情を持っていて、それが自分に返ってくる。このキャッチボールが人間関係の本質のように思われる。
自分が恋心を持っていても、相手は別に恋心を持っていないかもしれない。だから相手と共通する趣味を話のタネにしてラポールを形成していく。
キャッチボールをする中で、お互いに妥協点や気持ちの良い関係を調整していき、徐々に深化させていくのが、人間関係の醍醐味なのではないかと私は感じている。
一方、推し活は究極的には自分の感情だけである。自分の感情を推しにぶつける。ただそれだけ。推しから何かされることはあるかもしれないが、それは“お客様”としての対応であって人間関係ではないことに留意したい。推しから見れば、そういうファンが世の中に沢山いる、ということになる。
つまり、人間関係は一対一の相互な関係であったのに対して、推し活は、自分の感情を相手にぶつけるだけの一方的な関係であり、推しから見れば、一対他の関係でもあるという構造的な違いが存在する。
推し活の必要性
推し活が必要とされているのは、「推し」が熱量を向けても良い存在として(暗黙的に)認められていることだと思う。
普通の人間関係で、自分の中にある強い感情を加工なしで相手にぶつけたら、相手はどう思うだろうか。気持ち悪いと引かれてしまうのが関の山だと思う。だから自分の中にある強い感情を相手には「出せない」。
それでも、自分の中には強い感情がある。相手に対する並々ならぬ強い想い。この行き場のない感情を満たす先が、推しに求められているように感じる。
結局のところ、感情なんだと思う。「推し」は作るものではなく、勝手に出来ているものだし、「推し活」は辞めるものではなく、勝手に終わっているものだ。感情だから理性でどうにかなる問題ではなく、推し活の態度を人間関係に当てはめてしまえば、(相手にとって)荷が重すぎる。
だから、推し活なのだ。推しとの関係は一方的であり、ルールを破らない限り金銭を支払うことでどんなオタクも受け入れてくれる。金銭を対価に、推すことを許されたオタクは、推しとの壊れる心配のない安定した関係を構築することができる。この“隔たりの安らぎ”にオタクは共感する。
推し活のオタク
推しに向ける感情は人それぞれだ。
顔や声が好きだから、ずっとその子を見ていたい、聞いていたいと思うかもしれない。トークやリアクションが面白いからずっと配信が観たいと思うかもしれない。その人の人生観に共感・憧れを持ち、私もあの子のように生きてみたいと思うかもしれない。あるいは、私がこの子を見出したのだから独占したいと思うかもしれない。
オタクは推しに様々な要素を見出す。果たしてこれを恋愛感情とまとめてしまって良いものだろうか。
上で例に挙げた欲求のほとんどが恋愛関係にならなくても達成できる。踏み込んで言うと、友達関係である必要すらない。配信を開けば、ライブに参加すれば、達成できてしまう欲求がほとんどである。
分類: 推し活の苦しみ
推し活について考え直したところで、改めて推し活の苦しみについて考えてみたい。一方的な感情であれば、自己完結して苦しみが起こらないように思われる。ところが、なぜ推し活が苦しみに繋がるのか、それは「推し」はコントロール不可能な他者だからだと私は考える。
推し活の苦しみ(二次元)
推しを二次元キャラクターに限定してみる。
「二次元のキャラクターの推しがコントロール不可能な他者?二次元のキャラクターは生きていないのだからそんなことはない」と反論が出てきそうだ。果たして本当にそうだろうか。
二次元のキャラクターの著作権は公式が持っている。これは自明である。つまり、公式が意図したストーリーに沿って物語が進行し、キャラクターはその中でのみ描かれるということである。公式の意図と反するキャラクター描写は絶対に描かれないのである。
だから、自分がある物語を読んで解釈したキャラクター解釈像と公式が描くキャラクター解釈像に矛盾が出る場合がある。その場合、公式のキャラクター解釈像を受け入れるのか、それとも自分のキャラクター解釈像を信じるのか、どちらを選択するかはその人次第である。
例えば、○○というキャラクターは元々Aという性格だった。ところが世界大戦を経て大人になり、Bという価値観を有するように成長したとする。ここでは公式によって、○○はA⇒Bに性格が変化したキャラクターとして、キャラクターは解釈されている。
では、Aの性格を持つ○○くんが好きだったオタクはどう感じるだろう。受け入れることができるオタクもいれば、受け入れられないオタクもいるだろう。Aという性格だった○○くんが好きだったのに、勝手にBという性格に成長してしまって!!!と嫉妬してしまうかもしれない。
推し活の悩みはこうして生まれる。
対策(二次元)
この苦しみから解放されるにはどうすればいいのか。二次元オタクには秘策がある。
それが二次創作という文化だ。公式の解釈像と異なってしまえば、自分で小説を書き、イラストを描けば良いのだ。悩みの源泉が他者であるから、推しを自らの手で創り出せば良い。
推し活の苦しみ(三次元)
次に芸能人を推しとする三次元オタクの場合を考える。
当たり前だが、芸能人も一人の人間であり他者である。だからコントロール不可能な存在である。私たちが、芸能人に対して様々な感情を向けるけれども、その全てが受け入れられることはない。人間だから、一度発言したことを必ずやり遂げてくれるわけではない。勝手気ままだから人間だとも言える。
受け入れられない部分がどうしても出てきてしまうので、期待感とのミスマッチで悩むこととなる。推しがキャラクターの場合、二次創作という昇華方法があった。三次元の場合はそれも難しい。他者の物語を第三者が勝手に記すことは倫理的な問題になってしまう場合があるからだ。
三次元オタクの場合、推し活の苦しみにおける明確な解は存在しないのだろう。人間関係であれば、お互いが歩み寄って妥協する営みが発生するが、推し活は基本的に妥協する営みなど存在しない。
その最たる例が、推しの結婚や引退である。推しの結婚や引退は、オタクにとって何の関係もないイベントであるように思われる。だが、熱量を向けている存在の社会的な変化は、推すオタクにとって推し活の死を意味するビックイベントとなる。
三次元オタクとは、生きながらに死を待つ哀しい生き物である。
オタクの幸せを考える
ここまでの話をまとめよう。
まず、推し活には苦しみがある、どうしたら苦しみから解放され幸せになれるのかと問題提起した。次に、推し活は(人間関係と比較し)一方的な関係であり、自分自身の強い感情であるとした。そして、強い感情は人間関係でやるには荷が重すぎるので、推しが必要であることを説明した。最後に、「推し」がコントロール不可能な他者であるから苦しみが発生し、三次元オタクには苦しみから解放される明確な解が存在しないことを示した。
オタクが幸せになるであろう方向性をいくつか紹介して、この記事を終わりにする。
荒野を生きる
オタクの幸せを第一に考えるなら、自分自身の人生を第一に考えて生きること、これが全てだと思う。他者の言動に一喜一憂するために苦しむので、自分だけで生きて行く覚悟を決めるしかない。
私はある種のガチ恋オタクを尊敬している。なぜなら、彼らは覚悟を決めているように感じるからだ。ガチ恋オタクは“ガチ恋オタク”を演じているように感じる瞬間がある。恋心というより自分の愛情表現として“ガチ恋オタク”を演じる彼らは、自分の人生を生きているように感じる。
気持ちの良い推し活
気持ちの良い推し活をするというアプローチもある。それは、“推し”に多くを求めすぎないことである。
推しにどんな感情を向けているかは人それぞれで、人それぞれに気持ちの良い推し活が存在する。自分の心にお伺いを立てて、推しに何を期待しているのか、あるいは何を期待していないのかを聞いてみるのはどうだろう。実は、特に期待する必要のないことを期待していたかも……と気づけるかもしれない。期待感を下げることで、苦しみを減らすことができる。
最近のネットでは、推し活に“マナー”を要求するオタクが増えているように感じる。だが、個人的には真に受けすぎなくても良いのでは?と感じる。“マナー”は配信者側の論理であってオタクの論理ではない。オタクの幸せを第一に考えるなら、“マナー”を過剰に内面化する必要はない(ルール無視や法律違反は当然ダメですが)。
余談: とある解釈オタクの場合
推し活≒承認だった過去
私は解釈のオタクで、自分と同じような価値観を持つ推しに共感し憧れを持つようになった。推しが社会で活躍していく様を眺めることで、私は社会を生きる勇気をもらったし、社会で承認されているような気持ちになった。そんな推しが生きていく社会を、もっと見たいと思うようになった。
本当に推していたのは?
でも、自分の感情に冷静に向き合う過程で、私が推している対象が、推しというより推しを解釈した解釈像の方なのではないかと疑問を持つようになった。私は推しに対して強い感情を向けるけれども、それは本当に推しに向いているのだろうか、あたかも相手が人間であるから推しているのは人間だと勘違いしていたのではないか、と。
結局のところ、私は推しではないし、推しのことは画面内のことしかわからない。それならば、私が推していたのは、私が描いていた解釈像の方だった。
ここにおいて、私は推しが他者であることを本当に初めて認識したのだった。これ以後の推し活は以前までの推し活とは根本的に異なっていて、推しがコントロール不可能な他者であることを認めて、それでも私はあなたのことが好きだから応援したい、というアプローチをとった。
今までは自分の存在意義、承認欲求が密接に絡み合っていたけれども、それら自分ごとと推し活を切り離して応援することができるようになった。
今では
今は、推しの解釈像を自分の心の神棚として祀り、お祈りをしながら生きている。*1
自分の心に神ができたので、自分一人で生きていく心構えができた。自分の人生は自分でやります、その人生の彩に、推しが寄り添ってくれているんだという感謝の気持ちを忘れずに。
*1:このアプローチは意外と珍しいわけではなく、実践されている声優さんもいらっしゃる