家でゴロゴロ考えごと【週間日記 #40】

昨日今日は一日中ゴロゴロしていた。

帰宅後急いでお風呂に入って明日のために寝る。これがいつものライブスタイルだけど、今日は何もないからね。ライブの余韻に浸っていた。

こんなに感銘を受けて帰ってくるライブは久々だったかもしれない。お酒が抜けないからか、日常と非日常が混ざったような、フワフワした感覚のままブログをしたためている。

 

私にとって推しは特別なのだと改めて思った。他のアーティストの場合は、今日もライブ楽しかったなーと純粋にお客さんとして楽しむんだけど、推しについてはすっかりバグってしまって、まるで娘のピアノ演奏会を見守る親のように、今日も推しは社会をやっているんだな同じ社会で戦う戦友なんだなと勝手に同族目線になって楽しんでいる自分がいる。パフォーマンスはもちろん好きなんだけどさ、むしろ推しの仕事に対する姿勢の方に共感しているから、どうしてもそういう拗れた目線になってしまうんよ。

 

技術ってある程度到達したら自己満足の領域だよなーと思っていて、そんな自己満足の領域まで踏み込んで表現力を磨こうとする姿勢は、自分がやっていきたいことと重なっているんですよね。

「他人はそんなところまで見てないよ」これは全くその通りで、例えば稼げる声優への近道は、声の演技と歌とダンス(と演劇?)を同時に磨くことじゃないですか。私も一応声優オタクの端くれだから、演技力のある声優さんがあまり売れずアイドル売りされている声優さんの方が知名度のある状態には苛立ちを覚えるけど、とはいえ生きるためにそう戦略をとるのは当然だとも思っていて、B社の戦略には全面的に賛成である。誰だってそうする。俺だってそうする。

一方で、誰かは見ているというのもまた真なのだろうと。私よりも長くオタクを続けられている方が、推しの歌唱における演技の微妙な違いをなんとか言語化しようと四苦八苦されている姿をインターネット越しに眺めさせてもらっていると、技術って一部の好事家のものなのだろうと悟らざるを得ない。技術を磨いていきたいと思うなら、効率度外視で色々と飲み込んで頑張っていくしかないのだろうと。

 

ところで、何者か問題ってあるじゃないですか。何者にもなれない自分に悩むというアレ。色々と解決方法はあるとは思うが、技術を通じて社会を切り開いていこうとするタイプの人間は、技術を磨いていくと自然と何者かになっていく気がする。結局のところ自己満足の世界なわけだから、自己満足に向き合ううちにいつの間にかオンリーワンになっていく。そういうものでしょう。

上記は一部例で、社会人経験を積むことで学生の頃に抱いていた大半の悩みは無くなってしまった。自分のやりたいことの価値が大して認められなくても、生活さえできれば別になんでもいいよ、と期待値を下げて挑戦するようになったというか。学生時代は社会がとにかく大嫌いで、どうしてこんなに理不尽な思いをしなければならないのかと憤りをブログにしたため続けていたのにね。(そしてその悩みがサブカルによって救われるという体験をし、言語化・保存している当ブログ) 社会人になり社会に戻ることで悩み事のあらかたが解決されるというのもまた皮肉なことだなあと我ながらに思う。学生という身分は搾取なんですよ、社会人は金がもらえるだけマシである。社会敵視系声優が、活躍されるにつれてなんだかんだ楽しそうに社会をやっている様に、オタクもなんだかんだ社会人をやって大人になっていく、そういうものなのでしょう。

 

夢から醒めて日常に帰っていく。日常は続いていく。