週間日記 #15

とあるブログを読ませていただいた感想とかライブ感想の余談とか

 

 

役割による承認

経緯

シロクマ先生の社会適応や役割が嘘や自己否定になってしまう人の世界と、そうでない人の世界(のわかりあえなさ) - シロクマの屑籠というブログを読ませていただいた。社会からの要請に従って役割を演じることを嘘や自己否定と捉える方がいる、という話だった。

 

これを読んでとても懐かしい気持ちになった。かつて役割としての私と役割のない私と関係性 - Soitan’s lifeというブログを書いた時にそんな話をしたからだ。ブログでは、役割をきっかけに承認されていく事例を挙げて、役割による承認自体を否定しなくてもよいのではないか、という気分になった話をした。

あれから1年が経って考え方が変わり、現在では役割による承認に対して全くネガティブな気持ちにならなくなった。今週は、1年越しに役割と承認について今考えていることを言語化して残したいと思う。

 

ありのままの自分とは?

役割が嘘や自己否定に感じる場合、おおよそ以下の考え方になるだろう。

「ありのままの自分」が存在し、社会をやるためにはTPOに沿った役割を演じる必要がある。その「役割を演じる自分」をありのままの自分ではない自分として捉え、「ありのままの自分」を善、「役割を演じる自分」を悪とする二項対立で考える。

 

ここで疑問なのは、「ありのままの自分」とは何だろう?ということだ。

むしろ「ありのままの自分」が存在しているという感覚がわからなくなってしまっている。私が役割による承認を嘘や自己否定に感じなくなったのは、ここが理由なんだと思う。

 

職場・学校・SNS・自宅等、社会の要請に基づいて様々なキャラクターに変化させるとき、どれが良くてどれが悪いといった優劣がつけられない。どれも自分自身の構成要素であり、ありのままの自分なんだと感じている。

この解釈においては、「ありのままの自分」というキャラクターが一つに定まっているわけではなく、動的に変化したキャラクターの集合体全体が自分であり、自分を構成しているのだと考える。だから、どのキャラクターも「ありのままの自分」ではないし、「ありのままの自分」であるともいえる。

 

こうして、自分というものを柔軟に捉えられるようになり、役割と和解できた。

役割によって承認されても、自分を構成する要素が褒められたと捉えて嬉しくなり、役割によって承認されなくなっても、自分を構成する要素が受け入れられなくなってしまったんだなと諦められるようにもなった。大人になったんだと思う。

 

苦痛なのは苦痛

とはいえ、社会からの要請に応じてキャラクターを変化させるのは大変だと感じている。そんなのは当たり前だと軽やかにやっていける人であれば、努力をしているという発想すらなさそうだけど、自分はコストをかけて社会をやっているという感覚があるので、しんどいと思うのは事実である。

 

そんな時には、“心の神棚”が「迫力のある愛嬌ですよ」と社会適応を促す言葉を囁いてくれるようになった。

 

声のオタクになって7年目に突入した。推しがオタクに見せるキャラクター像について何となく把握できるようになった。それが憧れや夢や希望へと変化するのに時間はかからなかったんだと思う。気付いたら推しのキャラクター像は推しのキャラクター像から分離し、自身の願望へと取り込まれていた。もう以前の自分には戻れないんだなと感じている。

 

夢の欠片

『推し、燃ゆ』でいえば、これが“背骨”なんだと思う。主人公は推しの引退によって初めて自身の背骨が推しのキャラクター像と異なることを認識した。そうならないように“心の神棚”を必死に磨いているのが今の自己認識である。

 

自分には夢がないと思っていたけど、夢っぽいもの・夢の方向性を持っていたことがわかった。まだ全然言語化できる代物には育っていないけど、ポピパでいう1期1話の「キラキラドキドキしたいです」的なところだ。

ポピパは、文脈的に“リアルも”3期まで到達したところだと思っていて、流石第一線で活躍されている声優さんだわと感じる。でもコンテンツをそういう風に解釈して解像したのであれば、多分(それを自分自身の問題としてスライドして落とし込めばいいだけなので)、自分も1期から3期まで行けるんじゃないかと思えてきている。

 

ライブ感想の余談

推しのライブを見に行くにあたり、とあるオタクの方とお話しする機会をいただいた。オタクとそういう話をして臨んだ。そして、そういう文脈を浴びて帰ってきた。そういうことだと思った。

 

そういうことなんだと思う。達観系だから夢を語れないのではなく、達観系だからこそ語れる夢の形があるんだと確認した。

 

最高のライブだった。