役割としての私と役割のない私と関係性

こんにちは、Soitanです。

突然ですが、役割に縋ることでしか社会をやっていけない私たちは、どう存在が肯定されるのか…と考えたことはないですか?自分が受け入れられているのは、技能・肩書きであって本当の自分じゃないんじゃないかって。
私はこの問題をずっと考えていて、いや、やっぱり役割は重要だと思うことにしたんですよ。今回はそんな話です。

 

 

本当の自分≒自己?

そもそも本当の自分って何だろうって考えました。
自己心理学では、人生は自己の成熟であり、自己は自己対象によって成熟する。自己の治療には、患者の自己に向き合って変容性内在化を促すように働きかけるそうです。もしこの解釈が正しいとすれば、本当の自分とは自己なのではないか、と言えそうです。(一つずつ説明します)

ここで、自己とは相手と関係した自分のことで、自分を作る装置である自我とは分けて考えます。問題は、自己と自我に乖離があった場合に自我が優先されるべきかということです。自我が優先されれば、自己と自我の乖離に一生悩まされることになる。これは社会を生きて行くには不利……だから自己に寄り添いたい。自己に寄りすぎると他人ありきになってしまう。何事もバランスが肝心ってことですね。自己と自我に一定の接続があれば、それはもう本当の自分は自己であると言っても差し支えないのではと私は考えます。

 

役割は悪いものではない?

自己は自己対象が必要です。自己対象とは自分を肯定してくれる対象のことを言うそうです。*1 自分が誰かを自己対象とする権利があるように、相手が自分を自己対象にしてくれるかは自由です。ここで役割が関係してきますね。技能や肩書きがあれば、相手が自分を自己対象にしてくれる確率が上がる、でもそれはチートじゃないかという悩みですね。

ここでたとえ話をしましょう。
口内炎を7個抱える自営業の人が、それでも休日があると、自分を必要としていないんじゃないかって悩んでしまって仕事を欲してしまうとしましょう。
私たちは遠くから、休んだほうがいいよと心配することはできます。でも休養を強制させることはできないですよね。なぜなら、仕事があることによって承認を得ている彼女に向かって、休めと助言することは、存在を否定していることと同義になってしまう可能性があるからです。

逆にこの例を教訓にすれば次のようなことが言えると思います。
仕事と承認が密接に関わりあっている彼女は精神が安定していると言えるのではないか、ということです。私たちは身体の健康を心配しても心の健康を心配することはない。※コロナ禍の柔和な表情を見ていると、ワーカーホリックは良くないと思いました。もちろん仕事がうまく行っていることが大前提ではありますが、役割を内面化していれば、役割によって相手から認められることは個の承認として考えてもいいのではないか、ということです。

 

役割を演出することで関係を構築することもできる

「100日間おなじ商品を買い続けることでコンビニ店員からあだ名をつけられるか。」という話もあります。*2 ビスコを買い続ければあだ名を付けられるのかどうか調査したかったのだそうです。「ビスコを買い続ける人」という役割を演じることで関係を構築しています。「ビスコを買い続ける人」という役割は、「ビスコを買わなくなった」その日から関係が破綻します。

これが役割による承認を怖がる理由ですね…
私は役割によって生かされている、役割が無かったら承認されないのではないか……

 

 「でもビスコに飽きちゃったからって、これから来なくなっちゃったら寂しいですね。」と本当に悲しそうに話すので、こっちまで悲しい気持ちになってしまった。

出典: https://note.com/mutekiinc/n/n773f51e01077

ビスコを買い続ける人」はこの店員によって救われています。「ビスコを買い続ける人」がその役割を放棄しても、存在を肯定してくれています。関係性とは、本来はこういうものではないのでしょうか。

 

日常の再構築は人生を豊かにすると信じている

BanG Dream!のPoppin' Partyは、日常を再構築することでキズナを深め夢を撃ち抜こうとしています。*3 その日常には、普段隠されていて気付かない可能性の原石が眠っていて、キラキラドキドキという掛け声によって掘り起こされている。

役割も同様にきっかけとして利用していけば、たとえ役割を放棄したとしても関係性は破壊されないのではないか。

 

役割とは、夢・野心・努力を追い求めた結果として得られた能力のことを指すとします。その能力を高く評価することで、私たちはお互いに関係を作る。それはきっかけとして当たり前だけれども、そうして得られた関係性の先に、能力なしに承認される関係性もあり得るのではないか、ということです。それが例えば自己対象と呼ばれるものだと思います。新たな関係性のきっかけに夢・野心・努力を利用するのもまた、ありなのではないか。

 

野心と承認を繋ぐものとして関係性を考える

自己の成熟には野心と承認が重要です。この二つを結びつけるものとして関係性を考えたい。

夢や野心を追い求める戸山香澄を救ったのは、彼女の夢を肯定するPoppin' Partyのメンバーであり、彼女らとの関係性により戸山香澄は承認された。
逆に役割による承認に縋り、承認欲求に飢えていた山吹沙綾を救ったのは、戸山香澄やPoppin' Partyのメンバーであり、彼女らとの関係性により山吹沙綾もまた夢を見ていいのかなと思えるようになったのだろう。

役割に縋ることも一つの承認の在り方だが、どうせなら役割による関係性を深化させ、役割に依らない関係性に昇華させるそれこそが、わたし足り得るのかもしれない。

 

 

*1:自己対象とは? https://note.com/eruetsuryo/n/ncf0b14f641c6

*2:100日間おなじ商品を買い続けることでコンビニ店員からあだ名をつけられるか。 https://note.com/mutekiinc/n/n773f51e01077

*3:Poppin'ハロウィンパレード♪感想や考察「非日常は日常?」https://lativior381.hatenablog.com/entry/2019/10/05/203642