どうも、Soitanです。
解像度が増していくというお話です。
久しぶりの友達と会う機会があった。今の時代は、連絡しなくなっても何かのきっかけで情報を掴むことができ、再び会うことができたりするので、良い時代だなと思った。
その子と、今はこういう悩みがあってね…という話をさせてもらった。私の回りくどい話を、それってこういうことでしょ?と的確にズバズバ物申してくる姿に、昔と変わらないなと思った。私は何も考えてないよ(笑)なんて絶対嘘でしょ。*1
たぶん、私がまじめに見えるのは、一つ一つ物事を理解しないと納得できないからなんだと思うよ。木を見て森を見ずじゃないけど、森が木の集合体であることを認識しないと森が森だってわからなくて、私は森を木の集合体としてしか見られないんだ……
物事には1の尺度と2の尺度があってバランスで成り立っていると思うんだ。例えば製品を作るとき、品質と値段という尺度があったとする。高品質ばっかり突き詰めちゃったら値段は当然高くなる。そんなもの一部の物好き以外誰も買わないよね。じゃあどうするかというと、値段の制約の中で高品質であるよう追求する。
こんな話もある。人って目をどうやって認識しているんだろう。なんとなく顔のこの辺にある、目ん玉があって、上にまつ毛があって、そういうものを目って言う。
じゃあ機械はどうすればいい?機械は画面を細かく細かく区切って、そのセルに一つ一つ色を付けていく。そうやって画面を表示する。つまり隣同士もバラバラだ。
じゃあ目って何?顔って何?まつ毛って何?
パターン認識という技術があって、目の話で言ったら、例えばRGB(光の三原色)の3つの尺度があって、ここに黒っぽいものがあって、この辺に白い光があって、周りが肌色に覆われてて、そういったものを“目”として覚えこませる。n次元の座標系を作って、“目”の尺度のデータを保存する。
カメラには瞳オートフォーカスなんて技術が入ってたりするけど、それはある映像に対して覚えこませた“目”のデータと比較して、そのデータとの“距離”を測って“近かったら”それを“目”と判断して焦点を合わしていく。*2
そんな感じで、機械には目という機能が持つ意味が分からなくても、なんとなくこんな形のするものを、“目”として認識することができるのだ。
それって私の認識の仕方とそんなに変わらないなと思って。
最近丸くなったなと思うことがあるのだが、それは、小さい頃はある物事に対して、例えば2つの尺度でしか物を認識できなかった。しかし、大人になるにつれて尺度が4つくらいはみえるようになったんじゃないかな。尺度の中でのバランスがより求められるようになり、過激な思考が抑えられていく。
私は、①物事には尺度が存在すること、②その尺度の中でのバランスを認識しないと、物事を正確に捉えることができないのだろう。だから、森を“空間の場”として認識するその子の思考がわからない。きっと、その子がその子なりに考えて得られた答えなのだろうが、どういう思考過程を経たのかが私にはわからない。
私の人生は、物事の尺度を拾い集める旅になるのだろうな。そうして、空間の解像度が上がり、精密に物事が見えてくるのだろう。でも精緻になったとしても、本質はわからないままなのだろうか。あるいは、本質の尺度を覚えていく旅になるのだろうか。