理想と現実 【週間日記 #25】

理想と現実の話を書きました。

 

 

理想と現実とのギャップ

ずっと理想と現実のギャップに苦しめられてきたんだと思う。「何でもっと解釈可能な社会にならないんだ!」と言葉にならない憤りを感じたのは一度や二度……どころではない。

「それは今いるこの環境が悪いのであって、私が知らないだけだ。努力して環境を変えれば、きっとより良い環境が待っていて、解釈可能な社会が待っているはずだ!」と妄想して、ひたむきに努力したこともあった。確かに環境は良くなったけれど、当初の希望は叶うことはなかった。

 

私は世界を知りたかった。ずっと世界のことを理解しようとしてきた。

物が動くとはどういうことか。流れるとはどういうことか。世界の本質に憧れ、世界を記述する方程式が魅力的に映り、それを学ぶことで、世界と一体化する気分になれた。

 

ところが、それは社会で生きるためには何の意味も持たない。鋭い言葉なんて、何の役にも立たないことを知った。

 

新型コロナウイルス数理モデルが社会にどう受容されていくのか、は自分にとって興味の対象である。数理モデル感染症の専門家が政治に翻弄されていく様を見せつけられることはとても苦しかった。世界を記述しようとする野心的な論理が、好き勝手に解釈されていった。端的に言えば、社会に絶望したのである。

 

私の大きな誤解

私は今日までずっと勘違いをしていた。人間は世界の一部ではあるけれど、私たちが普段生きているのは社会だ。社会に興味があるのならば、社会を学べばよかったのだ。

 

インターネットでオタク活動をさせていただいて、社会経験を積んで、少しずつ社会がわかってきた。

 

例にルックバックの件を出そう。ルックバックが批判によって表現の修正を余儀なくされた事件がある。創作者が創作物で伝えたかった物語を置き去りにして批判をするのはいかがなものかという解釈がある。差別を助長するから表現の修正は当然だろうという解釈もある。

このとき、後者の意見を尊重するのが、我々が決めた社会なんだと思う。確かに前者の批判は一つの意見としてあり得るけど、それでも差別はダメなんだ。

 

社会と対立して社会活動を行うことも一つの選択としてあるけれども、一般的に、社会の構成員たるもの社会の論理を尊重して営むのが自然だろう。社会の論理を事実としてまず受け止め、それに対してどのように自分が解釈していくのかという態度で、生きていきたい。そういうことなんだと思う。

 

ルックバックの犯人や小田急の事件は、とても怖かった。なぜなら、そこにあり得たかもしれない未来、選択しなかった過去が想像できた。あれを理解不能な人間が起こした事件と捉える方も多いんだろうけど、自分にはそう思えなかった。社会から疎外されたら犯人のような物語を解釈する未来もあっただろうなと思ったし、自分もいつ狂人の物語を創作するかわからない。*1 決して社会から疎外されてはならないと決意した。そのためには現実に即して物語ることが重要なんだ。

 

まとめ

長々と書いてきた。結局、理想と現実のギャップから解放されるためには理想を変更するしかなく、それは現実を理解してその事実をありのままに肯定することしかない。(その先にしかギャップに悩まされない理想はない) 個人が社会にできることは限られているのであって、まずはありのままの自分を肯定するところから始めないといけない。おそらく生きづらさの原因は自尊心の低さが根本原因なんだろう、ということがわかった。プライドを持って生きられるように充実した毎日を送ることをきちんと考えていきたい。

 

 

 

 

 

*1:なんなら私の推し活日記も一種の狂人日記だろう、とは思うが