インターネット世論のしょうもなさについて【#週間日記 39】

インターネット世論があんまり得意でないという話をします。

 

ある特定の党派の方は、とにかく『ある物語』は絶対正しくてみんな信じるようになることが前提だと捉えている節がある。世の中を「『ある物語』を信じている人」と「まだ知らない人」に分けて、後者の人間は勉強不足だと認識している。啓蒙し勉強してもらえれば、必ずこの『物語』を信じてくれると幻想を抱いている。

ただ、現実はそんな世の中にはなっていなくて、「そういう『物語』は信じてませんよ」という人が沢山いる。宗派が違う人っていうのは普通に存在しているんですよ。ところが、彼等は「『ある物語』が絶対的に正しい」と信じているから、「『ある物語』を信じている人」と「まだ知らない人」という区分けで世の中を認識することから脱却できない。結局、その『物語』からいくら高尚な理論を展開したとしても、その枠組みの外側に行くことが永久にできず、党派性の議論に終始してしまう限界みたいなものを感じる。

一方で、特定の界隈で話題になっている方の書籍は、要するに「『ある物語』を信じていない人がいますよ」というものを提示している、ということに尽きる。

 

この一連のインターネットの議論を眺めていて私が思ったのは、「現実を描写することの重要性」がもっと認められてもいいんじゃないかということだった。

例えば対象が自然であれば、ある現象を解析する際、厳密に定義された物理量を観測機器で「測定」することで評価する。多少の誤差はあれど再現性がある。

一方で、社会のあれこれは結局のところ解釈の問題であるから、再現することが極めて難しい。同じものを見ているようで複数の解釈が存在するということが当たり前に起こる。多様性というのは「解釈の多様性」であって、つまり物語が沢山あるということである。社会がそういう性質を帯びているから、普遍的な社会を記述し保存することそのものが極めて難しく、複数の物語を同時に記述することでなんとか社会を保管できないかと考えるのが現実的な解だろう。

 

社会の記述方法について私見をまとめたところで改めて冒頭の話を考えてみると、『ある物語』では理論も確立していて優れていると人は言うけれど、それが実際どのくらい価値のあるものなのかは正直分からない。信じていない人もいます、で終わりな話を『ある物語』の延長線上の解釈で無理やりこねくり回したところで筋が悪そうな結論しか出なさそうという直感がある。それだったら、理論は構築されてなくても「別の物語も存在していますよ」という事実提示の方が価値のあるように見える。別の物語における理論は、共感する他の方が考えてもいいわけだから。

 

個人的に思っているのは、ネットで人気の「別の物語」にも飽きがきているので、早くアップデートした理論が来てほしいなあということだ。ネットを眺める限りにおいては、党派の対立以上のものが出てこなくて白けているのが正直なところではある。“訂正可能性の哲学”はかなり面白いと思ってるけど、別の解釈もあって良いような気がしているので、そういうのを期待したい。