※ネタバレ注意
新海誠監督の最新作、天気の子を観てきました。前情報は一切入れておらず、賛否両論という評価だけを見て期待して映画館に行ったわけですが、結論から言うと中盤から泣き始めるくらいには面白かったです。*1
最初に出た正直な感想としては、監督は陽菜を最後まで美しく描きたかったんだなということでした。この映画をどのようなスタンスで観るかは人それぞれなので強制するつもりはありませんが、私はこの映画を大人(社会) vs 子供 という構図でずっと観ていました。
新宿東口の街並みは決して美しい光景と言えるものではありませんが、それはまさしく2019年の東京の一部です。そのシステムから逸脱した存在である帆高が、冷たくあしらわれる描写から始まったこの映画は、最初の数分を見ただけで嫌な予感しかしませんでした。
陽菜が晴れ女として活動し、代償を払うわけですが、帆高が陽菜を取り戻し、東京が3年間の長雨で沈むシーンへと移ったところで、私はバッドエンドを覚悟しました。須賀さんが帆高に、自惚れんなよ。と言って見せたり、おばあさんが昔は海だった場所だったんだからあるべき姿に戻っただけだと言ってみせたところで、そりゃそうだよなと、苦虫を噛み潰したような顔で受け入れようとしたとき、陽菜が祈り、俺は大丈夫だと帆高が叫ぶラストシーンがあり、涙なしでは観ることができませんでした。
一つ一つ思ったことを残そうと思いますが、
まずこの映画に関して、恋愛ものという見方ができますが、私はあまり恋愛ものとは観れませんでした。それは、陽菜さんを普通の女の子として理解することが、全くできなかったからです。帆高は帆高で狂っているのですが、ちょっとイタイ男の子ということでまだ理解の範疇にいます。
ところが陽菜が生き生きとした女の子には映らず、どちらかというと僕たちの憧れの女の子を投影した存在のように感じました。(ラブホのあのシーンで女の子が自分の裸体を正面から堂々と晒すとはどう考えても思えなかった。ふーん、エッチじゃん。とは思ったけど、それとこれとは話が別というか何というか……)
唯一、陽菜が生きている人間として実感できた部分が、陽菜が利他的な子だということでした。自分が何者かをまだ理解できないでいる陽菜に対して、帆高が“晴れ女”としての役割を与える。ここで共犯関係が生まれるわけですよね。陽菜からしてみれば、帆高は自分の存在理由をくれた命の恩人なわけです。陽菜は自分の存在理由を確かめるようにして“晴れ女”稼業(しかし、あるコミュニティの小さな願いを叶えることにしかならないもの)に勤しみますが、代償を受けることになります。後に帆高によって救出されることになりますが、東京は沈んでしまいます。
私(の解釈で)は、ラストシーンだけ自分の為に晴れを祈ったことが凄く眩しく見えました。あの瞬間だけ利己的に行動した陽菜、恐らく自分の行ったことを受け入れようとしているんですよね。その姿勢に私は素直に賭けたいなと思いました。
陽菜が利他的な晴れ女業で利己的な小さな願いを叶えるにつれ、陽菜の身体が消えていく“身体性の消失”があり、帆高の利己的な小さな願いを叶えることで、ついに身体が剥奪されます。これに対し帆高の利己的な大きな願いを行動することによって“身体性の回復”が起こります。この流れを教訓とするならば、他人の利己の為に利他に行動することは“失敗”であり、利己の為に行動することは“成功”であるといえます。身体が回復した陽菜は利己的に晴れを祈ったのだと思いました。
ここまでが陽菜に対する考えですが、どうしても陽菜が生き生きとした女の子には映らず、僕たちの憧れの女の子を投影した存在のように感じた瞬間から、私は陽菜を女の子ではなく、夢や希望、またはそれに近い何かを漠然と表したものだと思うようにしました。もっと言うならば、弟の凪は女性の憧れの男の子(または監督の理想の男の子)を投影した存在なのかもしれません。*2
であるならば、自分の夢を“晴れ女”稼業にすることは、夢を(利他的に)妥協する失敗であり、帆高自身が晴れを願った池袋で遂に身体が剥奪されるのは納得がいきます。ここで帆高が反省して、自分の夢の為に陽菜を選択したおかげで“夢を叶える”成功になったのではないでしょうか。ラストシーンは、大人たちが帆高の選択を矮小化させようと躍起になりますが、夢の具現化である陽菜を見て、それでも夢を叶えたのは自分の選択だ!と自信を持てるようになったのかなと感じました。
そのように観ると、帆高と須賀の対立構造がより一層はっきり見えるのではないかと感じました。私は全編を通して須賀に感情移入しながら観ていたので、須賀では果たせなかったものを帆高が手に入れていく構造にカタルシスがあって良いなあと思って観ていました。
特に、須賀の事務所に帆高が参加する疑似家族的な部分は、一つの安住の形です。しかし、アウトローな事務所でさえも社会システムの一部であり、そこに妥協せず陽菜家の疑似家族に価値を見出していくストーリーは、夢 vs 現実 の対立でもあったのかなと思います。
自分の夢を叶えることの良い面ばかりではなく、悪い面として“雨”があります。雨を、利己的な夢を叶えてしまったことで社会が負担する代償と捉えるならば、その代償の雨は、東京があるべき姿に戻っただけの社会が許容するものであり、一個人が杞憂するものではない。おばあさんと須賀の発言は、「社会システムの内側にいる大人が、外側にいる若者の夢を矮小化させようとする試み」という側面と「夢を叶えることによる罪は、若者が杞憂する程大きなものではなく、社会に許容される小さなものであるというエール」という側面があり、どちらかというと後者の意味で汲み取りたいなという希望がありました。
この映画の感想を検索して読むのが最近の楽しみですが、この映画を中高生向けの映画と評していることがなんだか寂しく、やはり社会システムの内側にいることの既得権益は凄まじいのだなと、映画に出てきた警察の気持ちがよくわかるのですが、それでも夢を叶えようと奔走する若者を止めたくはないなと、何歳になっても若者の気持ちを忘れずに若者から大人になっていきたいなと思った次第です。
映画を見た直後の感想(ふせったーですが、全ての方が閲覧できます)↓
この映画が狂っていることに関する感想を語っています。
ネタバレ有の天気の子の感想ですが、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ https://t.co/4VK67aEtH7
— soitan (@lativoir381) July 28, 2019
余談
のと、それを若干○○○の少女に投影するのかーと思いました。
— soitan (@lativoir381) July 28, 2019
PS. 祈りって良いですよね。手を合わせて拝む行為、嫌いじゃないです。
あと、メインで声優使ってないのに、ざーさんとあやねるで遊ばないでほしい笑。(嘘、面白かった。)
— soitan (@lativoir381) July 28, 2019